
影が汚れていた。
正確に言うと、私の影が、なんか黒ずんでいた。
いや、影って元々黒いものじゃないのか?
でも、なんか、違う。
他の人の影と比べると、明らかに私の影は濁っている。
グレーっぽいというか、くすんでいるというか。
…なんか、嫌だ。
ゑゑ…
そんなある日、駅前に見慣れない店ができていた。
「影のクリーニング屋 シャドウウォッシュ」
…影のクリーニング?
なにそれ。
でも、看板には書いてあった。
「あなたの影、汚れていませんか?」
「当店では、影を真っ白に洗い上げます」
「料金:3,000円」
…影を洗う。
そんなことできるのか。
でも、確かに私の影、汚れてる気がする。
最近、いろいろあったし。
仕事でミスしたし。
友達と喧嘩したし。
元カレの悪口を言いまくったし。
…そういうのが、影に出るのか?
なんか、あるかもしれない。
影って、心の汚れが溜まるところなのかもしれない。
哲学的だ。
私、今、めっちゃ哲学的なこと考えてる。
よし。
洗ってもらおう。
3,000円なら、まあ、いいか。
店に入ると、白衣を着た店員さんが出てきた。
「いらっしゃいませ。影のクリーニングですね?」
「はい」
「では、こちらに影を置いていってください」
そう言われて、足元を見る。
私の影が、床に映っている。
…これ、どうやって置いていくんだ?
「あ、大丈夫です。こちらで剥がしますので」
店員さんが、なんか変な機械を取り出した。
そして、私の足元に近づけると…
ペリッ。
影が、剥がれた。
え?
マジで?
影って、剥がせるの?
店員さんは、剥がした影を丁寧に畳んで、カゴに入れた。
「仕上がりは明日の夕方になります」
「はい…」
なんか、すごいことになってるけど、大丈夫なのか。
店を出ると、違和感があった。
足元を見る。
影が、ない。
当たり前だ。
クリーニングに出したんだから。
でも、影がないって、こんなに変な感じなんだ。
なんか、軽い。
存在が薄い。
…私、今、影のない人間なんだ。
吸血鬼みたい。
ちょっとかっこいいかもしれない。
いや、全然かっこよくない。
ただ、気持ち悪い。
その日の夜、鏡を見た。
鏡には、私が映っている。
でも、影がない。
…怖い。
めっちゃ怖い。
なんか、自分が自分じゃない気がする。
影って、こんなに大事なものだったのか。
早く明日になってほしい。
翌日の夕方。
仕事を終えて、急いで店に向かった。
「お待ちしておりました」
店員さんが、私の影を持ってきた。
…
……
………真っ白。
真っ白だった。
影なのに、真っ白。
いや、白い影って、もはや影じゃなくない?
「当店自慢の仕上がりです。どんな汚れも、完全に除去しました」
「あの、これ、影ですよね?」
「はい、紛れもなく、お客様の影です」
…そうなんだ。
でも、白い。
めっちゃ白い。
新雪みたいに白い。
「では、お返しします」
店員さんが、また例の機械を取り出した。
そして、私の足元に白い影を近づけると…
ピタッ。
影が、くっついた。
足元を見ると、真っ白な影が映っている。
…なんか、シュール。
でも、まあ、綺麗になったし、いいか。
お金を払って、店を出た。
その瞬間。
違和感があった。
なんか、すごく、気持ち悪い。
いや、気持ち悪いっていうか…
汚い。
周りが、すごく汚く見える。
駅前の道路。
ゴミが落ちている。
吸い殻が落ちている。
…許せない。
なんでこんなに汚いんだ。
誰だよ、ゴミ捨てたやつ。
マナーがなってない。
信じられない。
私は、落ちていたゴミを全部拾った。
ティッシュも。
吸い殻も。
ペットボトルも。
全部。
家に帰ると、玄関が汚い。
靴が散らばっている。
…いつもこんなに汚かったっけ?
いや、いつもこんなもんだった。
でも、今日は許せない。
靴を全部並べ直した。
リビングに入ると、テーブルの上に雑誌が積んである。
…汚い。
全部片付けた。
キッチンに行くと、シンクに食器が溜まっている。
…汚い。
全部洗った。
床に髪の毛が落ちている。
…汚い。
掃除機をかけた。
窓が曇っている。
…汚い。
全部拭いた。
気づいたら、夜中の3時だった。
家中、ピカピカ。
でも、まだ気になるところがある。
冷蔵庫の中、整理されてない。
…汚い。
整理した。
本棚の本、背表紙が揃ってない。
…汚い。
揃えた。
クローゼットの服、色別に並んでない。
…汚い。
並べた。
気づいたら、朝だった。
一睡もしてない。
でも、寝られない。
だって、まだ汚いところがあるから。
ゑゑ…
会社に行った。
デスクが汚い。
…許せない。
全部片付けた。
隣の席の人のデスクも汚い。
「ちょっと、片付けていい?」
「え?なんで?」
「汚いから」
「いや、別に普通だけど…」
「普通じゃない。汚い」
私は、隣の人のデスクも片付けた。
書類を整理して。
ペンを並べて。
ゴミを捨てて。
「やめてよ!勝手に触らないで!」
「でも、汚いじゃん」
「余計なお世話!」
…余計なお世話?
汚いものを綺麗にして、何が悪いんだ。
理解できない。
お昼休み、同僚とランチに行った。
レストランのテーブルが汚い。
「ちょっと、このテーブル拭いてもらっていい?」
「え?別に綺麗だけど」
「綺麗じゃない。汚い」
店員さんを呼んで、テーブルを拭いてもらった。
それでも気になる。
「もう一回拭いてもらっていい?」
「さっき拭いたばっかりだけど…」
「でも、まだ汚い」
同僚が、呆れた顔をしている。
「ねえ、最近ちょっとおかしくない?」
「おかしくない。普通」
「普通じゃないよ。異常だよ」
異常?
私が?
綺麗好きで何が悪いんだ。
汚いものを汚いって言って、何が悪いんだ。
…分からない。
みんなが、おかしい。
私は、正常。
会社に戻ると、上司に呼ばれた。
「ちょっと、話がある」
「はい」
「最近、君、ちょっと変だよ」
「変じゃないです」
「いや、変だよ。さっき、会議室の椅子を全部ミリ単位で並べ直してたって聞いたけど」
「だって、ズレてたので」
「1ミリのズレなんて、誰も気にしないよ」
「私は気になります」
「…それから、トイレのペーパーの三角折りを、全部やり直してたって」
「角度が均一じゃなかったので」
「…君、疲れてるんじゃないか?」
疲れてない。
私は、正常。
みんなが、汚すぎるだけ。
この世界が、汚すぎるだけ。
…あれ?
でも、なんか、おかしい。
私、こんな性格だったっけ?
いや、違う。
私、元々はもっと、適当な人間だった。
部屋も散らかってたし。
デスクもぐちゃぐちゃだったし。
それでも、別に気にしてなかった。
なのに。
今は。
すべてが汚く見える。
すべてが許せない。
…これは、おかしい。
もしかして。
影のせい?
影を洗ったせい?
慌てて、影のクリーニング屋に駆け込んだ。
「すみません!影、元に戻してください!」
「申し訳ございません。一度洗った影は、元には戻せません」
「え?」
「影を洗うということは、その人の汚れた部分、つまり人間らしさを削ぎ落とすということです」
「人間らしさ?」
「はい。怠惰、妥協、適当さ、諦め…そういったものが、すべて除去されます」
…
……
………マジか。
「つまり、真っ白な影を持つということは、完璧主義者になるということです」
「でも、私、そんなの望んでない!」
「申し訳ございません。影は一度洗うと、元には戻せません」
「どうすればいいんですか!」
「時間が経てば、また自然と汚れていきます。生きていれば、影は汚れるものですから」
「どれくらいかかるんですか?」
「個人差がありますが…早くて半年、長くて数年でしょうか」
数年?
数年も、この状態が続くの?
…詰んだ。
完全に詰んだ。
その日から、私の人生は地獄になった。
すべてが汚く見える。
すべてが許せない。
友達と会っても、服の汚れが気になる。
「そのシャツ、シミついてるよ」
「え?どこ?」
「そこ。あと、襟も歪んでる」
「…もう、会いたくない」
友達は、去っていった。
家族と食事しても、テーブルマナーが気になる。
「肘つかないで」
「箸の持ち方、おかしい」
「食べ方、汚い」
「…もう、来ないで」
家族も、去っていった。
気づいたら、私の周りには誰もいなくなっていた。
一人ぼっち。
でも、仕方ない。
だって、みんな汚いから。
私だけが、清潔。
私だけが、正しい。
…
……
………寂しい。
めっちゃ寂しい。
これでいいのか、よくないのか。
影を洗う前の私は、適当で、だらしなくて、汚かった。
でも、幸せだった。
今の私は、完璧で、清潔で、正しい。
でも、不幸だ。
人間って、汚れてるくらいがちょうどいいのかもしれない。
完璧すぎると、生きづらい。
潔癖すぎると、孤独になる。
…悟った。
影は、洗ってはいけない。
汚れた影こそが、人間らしさの証。
3,000円で失ったのは、私の人間性だった。
今、私は部屋の隅で、一人で床を磨いている。
ピカピカになった床。
でも、誰も見てくれる人はいない。
ゑゑ… (´;ω;`)
追記:
影、少しずつ汚れてきた気がする。
昨日、つい床にゴミを落としたまま寝てしまった。
…進歩してる。
人間に、戻れてる。
早く、戻りたい。











