
谷底の町、水枯(みずかれ)の住民は、その赤ん坊が生まれた夜の奇妙な音を忘れていない。
産声は「おぎゃあ」でも「ほぎゃあ」でもなかった。湿った石の隙間から古い空気が漏れ出すような、喉の奥を震わせる「ゑ……ゑ……」という掠れた鳴動だった。戸籍役場に届け出を出す際、気味悪がった役人は「絵」か「恵」の字を当てようとしたが、産婆は首を横に振った。
「この子は文字の形そのものを欲しがっている。『ゑゑ』でなくては息が止まる」
そうして名付けられた少年、ゑゑ(ええ)は、幼い頃から言葉を滑らかに紡ぐことができなかった。人々と話そうとすると、現代の五十音表から削ぎ落とされた異質な母音が唇のあいだに引っかかり、喉がひりついた。村の者たちは彼を忌み嫌うでもなく、ただ「半歩ズレた場所にいるもの」として扱った。
ゑゑの家業は、町の北端にある廃棄された製紙工場の蔵番だった。工場が稼働していたのは大正の初めまでで、今は誰も使わない巨大な石臼と、変色した未裁断のロール紙、そして何万枚もの古書や公文書の反故(ほご)が積まれていた。
ゑゑの役目は、虫食いを防ぐためにときおり紙を風に通すことだけだった。彼にとって、この蔵は町中のどこよりも呼吸がしやすかった。活版印刷の鉛の匂いと、朽ちかけた植物繊維の乾いた甘い香りが、喉のつっかえを解いてくれる気がした。
十七歳になった年の秋、ゑゑは蔵の最深部で、床板の隙間に落ち込んでいた一冊の薄い手帳を見つけた。表紙には墨で「音律拾遺(おんりつしゅうい)」とだけ書かれている。中をめくると、消え去った文字――ゐ、ゑ、あるいはそれらとも異なる、すでに発音の仕方が失われた表音記号の数々が、びっしりと几帳面な筆跡で記録されていた。
その中央の頁に、妙な一節があった。
「ゑとは、円環を結ぶ直前で滞る風の鳴動なり。声とならざる声を束ね、紙の背に縫い留むるとき、閉じた境界は揺らぐ」
ゑゑはその文字に指を触れた。その瞬間、指先から冷たい電流のようなものが駆け上がり、喉の奥が微かに鳴った。「ゑ」の字は、螺旋を描いて自分自身を縛る蛇のような形をしている。彼は自然と、その形を空中に指でなぞっていた。
数日後、水枯の町に異変が起きた。
雨が降らないわけではなかった。空は鉛色の雲に覆われ、湿度は異常なほど高いのに、雨粒が一滴も地面に落ちてこないのだ。見上げると、上空数百メートルのところで、無数の水滴が空中に静止していた。まるで時間が凍りついたかのように、町全体が巨大な水槽の底に沈んだ気配だけを漂わせていた。
町の人々はパニックに陥った。空は暗く、風は止まり、井戸の水は引いていく。祈祷師が太鼓を叩いても、空中の水滴はびくともしない。
蔵に籠もっていたゑゑは、空気の重さで理由を悟った。町の「音」が過剰に削ぎ落とされ、滑らかになりすぎたのだ。効率を求め、無駄を嫌い、合理的な言葉だけを交わすようになった結果、町の輪郭を支えていた細かな澱(おり)――かつて人々が喉の奥で転がしていた、曖昧で、無骨で、役立たずとされた音の居場所が完全に消え去っていた。
ゑゑは作業台に向かい、一番分厚い手漉きの和紙を広げた。硯に古墨を擦り、筆を握る。
彼は自らの名を、紙の中央に書き下ろした。
「ゑ」
最初の一文字を書いたとき、蔵の窓ガラスがビリビリと震えた。空気がわずかに軋む。彼は息を吸い込み、声帯を震わせた。人前では決して出さなかった、あの出生の夜と同じ音を出した。
「ゑ――」
喉が裂けるように熱い。それはただの母音ではなかった。擦れ合う絹、湿った砂利を踏む音、風が古い雨戸を揺らす隙間風の響き。それらすべてを含んだ、忘れ去られた音だった。
続けて、二文字目を並べて書く。
「ゑゑ」
重なったふたつの文字は、互いに引き合う磁石のように墨を滲ませ、紙の繊維の奥へと沈み込んでいった。彼が二度目の音を口にした瞬間、窓の外で破裂音がした。
空中で止まっていた水滴の結界が、中心から弾け飛んだ。
豪雨が叩きつけるように町に降り注いだ。乾ききっていた屋根瓦が音を立てて濡れ、埃が洗い流され、川に激しい水音が戻った。蔵の扉が風で押し開かれ、冷たい雨の飛沫がゑゑの頬を打った。
ゑゑは机に手をつき、荒い息を吐きながら外を見た。町中から人々の歓声と安堵の叫びが聞こえてくる。だが誰も、この雨がどこから解き放たれたのかを知らない。
机の上の和紙を見ると、書き殴られた「ゑゑ」の二文字はすでに墨の跡を消し、紙そのものに奇妙な凹凸の透かしとなって定着していた。
ゑゑは濡れた筆を静かに置き、喉に手を当てた。相変わらず、人前で話すための言葉はうまく見つかりそうにない。けれど、自分がなぜその名を背負って生まれてきたのか、その理由の欠片だけは、手のひらの冷たさの中に確かに感じ取っていた。
雨は夜通し降り続き、水枯の町を新しく、少しだけ古い色へと染め変えていった。











