
港町の北外れ、崖の上に建つ灯台のふもとに、古い木造の映写室があった。
ゑゑは毎夕、日没の三十分前に急な石段を登り、その建物の重い引き戸を開ける。町営の小さな映画館だった場所は、十数年前に閉館し、今は港の夜間標識を兼ねた私設の記録保管所になっていた。
ゑゑの仕事は、毎日届けられる無数の「フィルムの切れ端」を整理し、保管台帳に番号を振ることだった。
送り主は、全国の古い映画館の解体業者や、遺品整理の清掃員、時にはただの好事家たちだ。現像に失敗したスナップ写真、上映されずにカットされた三秒だけの風景、名前も分からない誰かの家族旅行のフッテージ。捨てられるはずだったそれらの短い断片が、封筒や茶色い小包に詰められて毎日のように届く。
ゑゑは埃っぽい作業机に座り、ランプに明かりを灯した。
机の真ん中には、手動の編集機が置かれている。フィルムの両端を小さなスプールにセットし、ハンドルをゆっくりと回すと、磨りガラスの小さな窓にモノクロームの像がカタカタと音を立てて浮かび上がる。
今日届いた包みを開けると、缶の中からわずかに酢酸の酸っぱい匂いがした。フィルムが劣化し始めているサインだ。ゑゑは白い綿手袋をはめ、ピンセットで慎重に先端をつまんで編集機に通した。
ハンドルを回す。
映し出されたのは、どこかの海辺だった。ただし、いまゑゑがいる北の荒々しい海ではない。強い陽光、白く反射する砂浜、画面の端で激しく揺れるヤシのような街路樹。そして、カメラに向かってぎこちなく手を振る、麦わら帽子を被った少女の姿。
少女の背後を、一台の黒いセダンがゆっくりと通り過ぎていく。ほんの五秒ほどの映像だった。やがてコマは真っ白に焼き切れ、再び真っ暗な露光ミスへと戻った。
ゑゑはハンドルを止め、少女が手を振るコマでフィルムを固定した。
拡大鏡を覗き込むと、セダンの後部座席に人影が見えた。その人物は窓の外を見つめており、フロントガラス越しには、特徴的な形の古びた鉄塔が写り込んでいる。
「……これか」
ゑゑは独り言を呟き、背後の巨大な木製棚に目をやった。
そこには、何千本もの丸缶が年代も地域もばらばらに並んでいる。だが、ゑゑの頭の中には、それぞれのフィルムに映り込んだ風景の断片が、ひとつの立体的な地図のように組み上がっていた。
三年前、ある解体業者から送られてきた「昭和四十年の臨海工業地帯」のフィルム。そこにも、これとまったく同じ形状の鉄塔が映っていた。さらに別の缶に入っていた、見知らぬ結婚式の記念撮影の背景にも、この黒いセダンのナンバープレートがかすかに記録されていた。
誰もが「ただのゴミ」として切り捨てた数秒の断片。けれど、それらを何十、何百と繋ぎ合わせると、ある特定の人物が辿った旅路や、過去の町が消滅していく過程が、パズルのように浮き彫りになる。
ゑゑはスプライサー(フィルム接続器)を取り出し、刃を軽く当てた。少女の笑顔の直後でフィルムを丁寧に切断し、透明なテープで別のリールへと繋ぐ。
夜が完全に下りると、窓の外では自動点灯した灯台の光が、一定の周期で水平線を切り裂き始めた。青白い光が部屋の中を横切るたび、壁一面に吊るされたフィルムの帯が水族館の海藻のように影を揺らす。
ゑゑは完成したリールを小型の映写機にセットし、白い壁に向けてスイッチを入れた。
カタカタカタ、というリズミカルな機械音が狭い部屋に満ちる。
壁の上で、昭和の南国の少女が手を振った直後、別の誰かが撮った雪の降る交差点へと繋がり、さらにその奥へ、夕暮れの鉄橋を渡る蒸気機関車の煙が重なっていく。時代も、場所も、撮影者の意図も違う無数の「他人の記憶」が、ゑゑの指先ひとつでひとつの継ぎ目のない時間へと編み直されていく。
ゑゑはパイプ椅子に深く腰掛け、両手を膝の上で組んだ。
自分がどこで生まれ、なぜここにいるのかを誰かに話すことはない。自分の記憶など、この部屋にある断片のどれよりも薄く、頼りないものに思えたからだ。だが、誰かが世界に向けて確かにシャッターを切ったその数秒の光だけは、こうして自分の手で繋ぎ留めることができる。
窓の外で海鳴りが高くなる。
壁の光を見つめながら、ゑゑは次の包みに手を伸ばした。夜はまだ長く、繋ぐべき世界の欠片は、まだ机の上に山積みになっていた。











